アクティブラーニングについての一意見 一体何を”アクティブ”にするのか
もう一ヶ月程前ですが、大阪で開かれた「アクティブラーニング」をテーマにとりあげた研究会に顔出してきました。
規模が大きくて参加者はだいたい100人くらいでした。
現場の先生や、教育委員会の職員さん、NPO職員さんなど、本当に多種多様な人が集った会でした。
やはり多くの先生はアクティブラーニングが導入されるということに、
戸惑いや不安を感じておられるようでした。
実践や発表を真剣なまなざしで聞いていた姿が印象的でした。
ただ、個人的に思う。
そもそも”アクティブラーニング”とは何なのでしょう。
文部科学省のHPにはこのように書かれています。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、 教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク 等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、 教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
難しそうな言葉が並んでますが、要するに知識を伝えるだけの授業じゃなくて生徒が能動的に学ぶことによる成長を促していきましょうって話だと解釈しています。
ここで、くせ者なのが”能動的”という言葉です。
文部科学省の解説、そんなに長い文章じゃないです。
にも関わらず、”能動的”という言葉が、4回も出てきています。
”能動的な学修”とは何か。
能動的という言葉の意味は、「進んで物事をしようとするさま」だそうです。
自主的とか、積極的という言葉が類語になります。
「進んでの物事をしようとするさま」
これを聞いたとき、僕は学修に対する関心・意欲・態度の向上こそがアクティブラーニングの要だろうと感じました。同時に、「それって従来言われてる事と何が違うの」とも感じました。
どこかのSNSで、
「教育委員会の人が『アクティブラーニングが導入されますが、先生方はこれまでと変わらない実践を』と言っていて、みなしアクティブラーニングが早速行われるようになってしまう。
という、アクティブラーニングに対する危惧について書かれた記述を見かけました。
(作り話じゃありません、あしからず)
教育委員会の人も、この記述を書いた人についても、真意は分かりません。
けど、「変わらない実践でもいいじゃん!」と思うのです。
前提として、手を抜いた授業は除きます。
子どもの自主性を育もうと、一斉授業でやたら自主性を喚起する授業だってアクティブラーニングとしてありだと思うんです。能動的な学修を、子どもの意欲や関心を喚起するものだとするのなら。
つまり僕が言いたいのはアクティブラーニングというのは、ディベートとかディスカッションを取り入れた授業ではなく、広く子どもの自主性や積極性、関心・意欲・態度が喚起されるものであるなら、つまり子どもの”内的なアクティブ”が生まれる授業であるならば従来通りのものでも全然OKじゃないかということ。
ディベートとか入れてみたけど、子どもが形だけ動いてる”形だけアクティブ”な状態になってしまうことのほうがアクティブラーニングの主旨とは外れてしまうということです。
終わりに
とはいえ、きっと形のアクティブを求められるのが時代の流れかなと思います。
研究大会でも、形のアクティブを入れたものがこれからどんどん増えてくるでしょう。
冒頭に書いた、先生方が感じておられる不安というのは「今までの型や築いてきたものを捨てなければならないのか」という、喪失に対する不安だと察します。
イヤですよね。せっかく頑張ってきたのに、それを捨てて新しいものをするのは。
勇気が要ります。
アクティブラーニングの推進が叫ばれる中、ご自身の実践をどうアクティブにしていくのか。一人でよく分からなくなったら、微力ながらいつでもお力になります!